リハビリの心得は恩師三浦先生の汗かくラジオ体操第一

カテゴリー │リハビリは365歩のマーチ



ていねいに生きていこうと思います。

脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

リハビリを担当していただいたのは30代の理学療法士のイズ(仮名)と女性で20代のジータ(仮名)、二人の厳しい指導でまるで猿人のように前かがみだった腰が立ち、二足歩行の直立猿人となり、ヒトに戻った。

ヒトに戻るために二人を師として汗を流したリハビリとなりました。
厳しい指導のことを二人と話したことがありました。

高校の時に体育教官だった三浦先生は定年まじかのお歳でまるでおじいちゃんのような風貌ながら、体操に詳しくその教えを今でもすばらしきこととして覚えています。

wikiればラジオ体操は1928年(昭和3年)11月1日に昭和天皇ご即位の大礼を記念して逓信省(のちの郵政省)簡易保険局により「国民保健体操」としてスタートしたとあるように古いもの。それでもその後誰もが知るラジオ体操第一や第二はまさに国民体操となっています。

体育の時間はじまり三浦先生がまずはラジオ体操第一を教えるというのです。

誰もが小学校から知っているような体操を今さら教えるのという疑問の中、三浦先生は言います。

「先生のするようにラジオ体操第一をすれば汗をびっしょりかくぞ、声も合わせてついてこいっ!

先生のラジオ体操第一は「イッチ、ニー、サンッ、シー」と大きな声で声を出し、手を前から上にあげて背伸びの運動の手指は天を突きさすほど「ビシッ!」と音をがするほど突き上げるのです。

先生について大きな声を出し、ビシッビシッと音がするほど体の動きにメリハリと節をつければ汗びっしょりとなるのです。

「どうだ!いい運動になっただろう」と笑う先生は息も乱れていないのに、私たちは肩で息をしていたのです。

「運動を習うなら心構えだけでもイズ先生とジータ先生は三浦先生である」
そんなつもりで教えていただいたリハビリ、二人のプロは確実に私をヒトに戻してくれたのです。

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いっちにーさんしーのリハビリ

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ていねいに生きていこうと思います。

脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

浜松都心のタワマンまではいきませんが都心に近い12階ある病棟には3階にリハビリルームがあります。

整形外科病棟は手術を終えればリハビリに励むまるでアスリート仲間、注目を集めるパラリンピックの選手も最初はかくやと思うことしきりです。

リハビリは理学療法士・作業療法士の先生が50人以上も活躍していて患者アスリートの担当をしてくれます。

車椅子や歩行器や杖でリハビリルームにやってきた仲間はそれぞれ平行棒やエアロバイク、さまざまな器機や歩行練習スペースで汗を流す、そんお中で我が2人の先生と励んだのは「いっちにーさんしー」と声出し運動の励行です。

平行棒の間を何往復、それは両手をつけながら、片手で、回復してくれば両手を離して歩きますが、往復するたびに「いっち」、「にー」、「さん」と声に出して往復数を数えるのです。

もちろん広いリハビリルームではありますが、みんなが声だしすればやかましくなりそうですがそうするのは私たちだけなのです。
なぜならば、じつは62歳の私を指導していただくのは30代、20代と我が子より若き先生たちです。

その指導にしっかり従って回復に励むならばその心意気を言葉に出して言ってみたいと思ったのです。

あまり大きな声で「いっち、にー」と言わなければ先生と私だけの訓練の姿勢となる。じつは時々隣で運動する人には聞こえ、休憩時間に「がんばっていますねー」などと褒められる、それは先生の指導のおかげであるのです。

汗をかくように運動する、じつはそれは高校の時に師事した体育教官の思い出からでもあるのです。
先生たちにその話をしてそのようにさせていただきました。これは明日また紹介いたしましょう。

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平行棒からはじまる歩行リハビリ

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ていねいに生きていこうと思います。

脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

平行棒は広いリハビリ室に備えられた器具で、最初の立ち上がりから歩行訓練、さまざまな運動の場として使われます。
掴むように棒になったものと画のような平均台のようなものがあります。

車椅子を押してもらう期では立ち上がり訓練に使い、その後さまざまな歩行訓練で使われます。

数歩から片道、往復と増えてゆき、往復何本というように距離を伸ばしていけます。脚がしっかりしてくれば片手をつく、両手を離すなどします。
手前側角に車椅子や椅子を置き、休みながら運動をします。

毎日の同じような時間にリハビリを受ける人とは顔なじみになります。朝はオハヨウ、昼はコンニチハと言い、共に平行棒で歩けば「がんばったね!」と共に励まし合える仲間となれるのです。

怪我や病気、回復の様子から必ずしも若ければ早く歩けるようになるわけでもありません。ずっとお年寄りでもしっかりと歩けるようになる人もいるのです。

ベッドに寝たままから車椅子へ、そして平行棒に摑まって立てば目線はどんどんと高くなります。
視線が健常の頃に戻れば治るためのリハビリをがんばるモチベーションとなるのです。

「もう一本(往復)してみましょう」、先生はその日の状態を見ては負荷を与えてくれる。病棟の中で運動の汗をかく、病棟アスリートのような気持ちにもなれるのです。

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あこがれはデイルームの給茶機、患者用トイレの訓練

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ていねいに生きていこうと思います。

脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

イズ先生との約束はベッドから起きられ、車椅子に乗り移れるようになったらデイルームの給茶機の冷たいお茶を飲むこと。

12月下旬入院の年末手術、1月をベッドに寝たまま過ごして萎えた脚のリハビリを始めたのは2月5日、先生は初回の車椅子に乗れた日にこの夢を叶えていただきました。

冷たい煎茶をカップに容れていただき飲み干せばそのおいしいこと、味は知らないわけではありませんが、車椅子に乗ってこれを飲むこと、その日を迎えることが私のリハビリのはじめなのでした。

リハビリ室ではまだ平行棒に摑まって立ち、数歩歩ける程度でしたが、給茶機のミッションが終われば次の大きなテーマがあります。
車椅子でトイレに行き、自分で便ができることです。

「ガマンしないで出たらいつでも呼んでくださいね」と笑顔の看護師さんに毎朝言われても、どうしても辛いのは出したものの処理をいただくこと、
それも笑顔で遠慮なくと対応していただいているのです。

先生に押していただいて患者用トイレ(車椅子で行けるよう広く、手すりなどさまざまな補助具が取り付けてある)に行けば、リハビリルームでの平行棒に取り組む程度ではまだ一人では車椅子から便器に乗り移れないのです。

「がんばって実現するテーマがたくさんありますね」と先生は言う。

甘えていてはリハビリは進まず、自ら達成したいことを目標にすること、デイルームの冷たい水は容易に実現したけれど、トイレの問題は自らがんばらねば解決できないのです。

午後のリハビリでの車椅子に乗り移りからがんばるぞ!、車椅子乗り移りは便の処理につながる道であること。
リハビリは目標を具体的に気づかせていただき、実現する道なのです。

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リハビリの先生 もう一人は作業療法士のジータ先生

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脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

リハビリを担当していただいたのは理学療法士のイズ(仮名)先生と作業療法士のジータ(仮名)の二人です。

理学療法士とは(短く紹介すれば)運動療法によって身体機能の改善を図る。運動療法には関節可動域の増大、筋力の増強、麻痺を回復させるなど主に寝返り・起き上がり・起立・歩行などの練習・指導をする先生で、体格がよく責任感が強い男性のイズ先生が担当。

作業療法士とは(短く紹介すれば)作業活動を通じて心・身機能の回復を図り、日常生活の諸動作の自立を指導するほか、趣味娯楽の開発・指導を行い、学校生活での指導などもするのが作業療法士、小柄で丸顔、やさしい笑顔のジータ先生が担当いただきました。

朝一番のリハビリがイズ先生なら午後一番はジータ先生が、その逆になったりすることもありましたが、リハビリルームが開く月~金はまずは2単位づつ進めていただきました。

手術後の経過や毎日の体調などの状況は医師・看護師さんと情報を共有していただけるから、すぐにリハビリでさらに回復に活かしていただけるのです。

62歳になっても長い入院、それも足が萎えてしまいリハビリで回復させるなどという経験は初めて。
励ましはげまし、甘やかすことなく指導していただいたのが2人の先生です。

私の歳からすれば子供、子供より若い年齢の先生ですが、全てをお任せする師として教えていただきました。

厳しい指導時にはしっかりと、気を緩めていただける時にはリラックスしてお話したリハビリ。さてリハビリとはなにか、二人の先生指導による日々を紹介してまいります。

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おはよう!の挨拶ではじまる朝一リハビリ

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脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

朝8時からの朝食を終えて身支度を整えれば「おはようございます!」と大きな声で挨拶するイズ(仮称)先生が病室にやってくる。

患者さんによって時間はいろいろですが、リハビリ期間が長そうな私はそう都央8:40分からのイチバンでスタートです。

最初は車椅子を押していただいて、車椅子を自ら動かして、歩行器で、杖でと続いたリハビリは主に病棟の3Fにある広いリハビリルームに移動して行います。

同じ病棟から何人ものリハビリ仲間たちと先生が患者用(寝台優先)エレベーターに乗り合わせて(もちろん密ではありません)行けば、朝から「おはよう!」、「オハヨウ」の挨拶を交わす、元気なリハビリのはじまりです。

3Fのルーム前には他のエレベーターなどで降りたリハビリ仲間や先生たちがいっぱい、さらにおはよう!オハヨウといえばどんどん元気になってきます。整形外科の患者のほとんどはまずは手術をすればあとはリハビリで元の運動能力を回復するのみ。

病室で「痛いイタイ」とひとり天井ばかり見ていては退院できません。

車椅子を押される同士は平行棒を掴んでまずは立ち上がるところから、車椅子で移動できれば歩き出す運動とリハビリ室で出会う仲間たちは同じレベルのライバルを見つけることができます。励ましあうことができるのです。

平行棒の前に車椅子が着き、ブレーキをしっかりかけたイズ先生が「さあ!立ってみようか」と励ましてくれる。
隣はずっと年上のおばあさんやおじいさん、ずっと若い私もまずは病衣の腰を支えられての立ち上がりです。

一歩づつがんばるぞ!思えばまずは立ち上がる力が湧いてくるのです。

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車椅子への乗り移りからはじまるリハビリ

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脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

一ヵ月も寝たきりだったため萎えてしまった脚のリハビリ始まりはベッドから安全に起きること、そして車椅子への乗り移りからはじまります。

ここでリハビリを担当していただいたイズ(仮称)先生が毎回協調し、癖づけてくれたのが「確実に車椅子のブレーキをかけておくこと」でした。

ベッドから足を出し靴を履いた私の横に車椅子を着けて「ここでブレーキをかけておくこと」、車椅子の左右にあるブレーキをかける様子を確認します。
毎日することで確実にブレーキをかけるようになる。

乗り移りは介助いただきながらベッドの横に一度立ちあがり、どちらかの足を支点に車椅子にお尻を向け、片手は車椅子の手すりに手をかけ、ゆっくり座る。

もしブレーキをかけていなければ座るお尻も手すりに置いた手からの力がかかったとたんに車椅子は動き出してしまう。
車椅子での事故はベッドなどからの乗り移り、車椅子からの乗り移りの際に起きるのだと教えていただけます。

イズ先生は「支えるから大丈夫ですよ」と言いながら病衣の腰あたりを持ち上げ助けてくれる。「しっかり脚で立って」と励ましてくれる。

手をここへ置いてとベッド手すりや車椅子の手すりに置く手の位置を教えてくれる。

何度も何度も立ち上がろうとしてベッドに尻を戻し、イズ先生に抱き上げられ励まされて立ち上がる、そしてようように車椅子に座れるようになれるのです。

夢にまで見た寝た切りベッドからの脚、車椅子に乗ることができたのです。それはあらゆるリハビリのはじまりとなったのです。

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ベッドから降りる前に安全に起き上がること

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脊椎間狭窄症の手術後、2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めてその日々を綴っていきます。

一ヵ月も寝たきりだったため萎えてしまった脚のリハビリ始まりに備えまずはベッドから安全に起きること、降りられるように学ぶことからはじまります。

ベッドには画のように標準では両側の半分までの柵があり、これを持って体を起こし、隣に着けた車椅子へ介助をしていただいて乗り移ります。

健常であれば体を起こすなど簡単なようですが、手術した場所をケアしながらゆっくりと体を起こすことをリハビリの先生から学びます。

寝ているときと半身を起こした時では血圧が変わります。起きた時、寝た時にめまいがするほどフラッとすることがあることを知ります。

そして体を起こす時には画のように両手で柵を持ち、ゆっくりと体を起こし、そして足を柵からゆっくり下ろします。
そしてリハビリに適した滑らず、しっかりと足を包む靴を履きます。

その際にベッド下に置いた靴まで体を曲げても届かない場合も多く、また危険なため靴ベラがあると便利です。

それも屈まずにも届くような長いものがよい。これは長い靴ベラが(100円ショップのダイソーに)あると教えていただき、揃えておきました。
※本編とは関係しませんが孫の手もあると便利です。

「おはようございます!さあ!リハビリに行きましょう」とイズ先生が病室に迎えに来てくれました。(病棟の3Fに広いリハビリ室があるのです)

ここから車椅子への乗り移りがはじまります。リハビリには学びが多くあるのです。

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目標はデイルームの冷たいお茶を飲むこと

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入院・手術を希望していても長い入院になっては、と時期を決めずに無理していてはいつかツケを払う時が来る。

「リハビリを担当することになりましたイズ(仮名)です。」と挨拶してくれたのは病棟内のリハビリルームに所属する30代の若き先生がやってきた。

年末迫る時期に無理がきかなくなり倒れ、救急車のお世話になって予定していた急性期の病院に入院すれば叩けばホコリの出る60代、今まで盲腸で入院しただけだと丈夫を自慢している分、実際に入院となれば意気地がない。

「二月になったらまずは車椅子への乗り移りからリハビリをはじめましょう」 イズ先生の言葉は手術から回復が年末から年始と重なったために術後のケアなどを含めて一か月以上ベッドの上にいた。

先生が来るまで知らなかったことに、一か月も寝たままでいれば脚は萎えてしまうのです。

一月の間はベッドに寝たまま膝から下の動きの練習、驚くことにまるで脚が効かないのです。

「私が歩けるようになりますから任せてください」というイズ先生の言葉はうれしくとも、まずはベッドから降りて車椅子に乗れることを希望した。

なぜならばベッドから降りられればトイレに自分で行けると思ったからでした。

既に一か月、毎日の苦しみはおつうじのこと、おしっこのこと、全てを看護師さんのケアに任せているからでした。「出たらきれいにしますからいつでも言ってくださいね」の言葉に「恥ずかしい」気持ちでたまらなかったからなのでした。

「先生、私の目標はデイルームにある冷たいお茶(ディスペンサーから自由に飲める)を飲むことです」

イズ先生は大きくうなずき、「がんばってまずは車椅子への乗り移りからはじめましょう」と言ってくれた。

「もちろん、トイレに行けるのも目標にしてね」、イズ先生はその苦しみを知っていた。

何故ならば、患者それぞれのその日の状態は看護師さんの聞き取りや対応、状況などがつづられている。

それを対応の可能性がある看護師さんが共有して読み・知り、主治医も把握する、同じようにリハビリの先生も共有するから患者の状態を知った上で対応してくれるのです。

2月初旬から3月中旬の退院日の前日まで続いたリハビリ。担当してくれた2人の先生への感謝を込めて綴っていきます。

※コロナ禍の中も懸命に働くHEALTH FIGHTERのみなさんに拍手と応援の気持ちを贈ります。