舞阪・弁天島 石碑 歴史文学めぐり

カテゴリー │初代弁天小僧のチャリ旅浜名湖

舞阪・弁天島 石碑 歴史文学めぐり

初代弁天小僧、今回は、弁天島・通称:2弁地区(乙女園)のチャリ
旅です。

「浜名湖ホテル 跡」

昭和7年(1932)現在の2弁地区である、千鳥園、観月園、乙女園
が埋め立て造成され舞阪町に編入されました。

当時の鈴木六郎舞阪町長は、浜名湖観光の中心として風光明媚
な弁天島に国際的な観光施設の構想をたて、各方面に働きかけ
を行った。

その結果、埋立事業にかかわった飛鳥組がホテルの建設を計画、
昭和19年9月に起工式を行ない、昭和13年3月に開業しました。

浜名湖ホテルの外観は宇治の平等院を模していたが、内部はす
べて洋風で食事は、フランス料理であった。

また屋根は銅版葺で、弁天島駅にはホテル送迎用の馬車が用意
されるなど豪華であったが次第に戦時色が強まる時代の中でホテ
ルの経営はきびしく昭和14年の秋には閉館に追い込まれた。

その後、海軍の療養所などに使用されたが戦後民間の所有となり、
昭和22年に建物は解体され、箱根・芦の湖畔に「ホテル竜宮殿」と
して再建され、その姿を現在にとどめている。
              
                            舞阪町教育委員会

場所:乙女園、すがたばし近く

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原田濱人 句碑

「鴨すでに 一連とぶや そこの風」

原田濱人(1884~1972)は浜松出身の県西部地方を代表する俳
人の一人で昭和14年(1939)に浜松で俳句雑誌「みづうみ」を創
刊、主宰しました。

この句は昭和16年に「浜名湖弁天島」と題して詠んだ句のひとつ
で、同年10月に句碑が建立されました。

場所:乙女園・浮見堂近く、うなぎ観音の愛称を持つ、魚籃観音像が立ってます。



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