2012年02月12日15:00

那須田 又七 顕彰碑
那須田家の先祖は豊臣氏に仕えてましたが、大阪の役の後、
舞阪で農業を営むようになりました。
又七は文明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。
勉学に励み、16歳で舞阪宿問屋場の書記になりました。
その後は、村役人、宿役人として長く勤めました。
産業振興に努め、海苔養殖の基盤をつくりました。
飢饉の時には、私費を投じて救済事業を行いました。
その人望と功績により苗字帯刀を許され「袱刀爺爺」と呼
ばれました。
寛永3年(1850)66歳でなくなりました。
安政5年(1858)その業績を永く伝えるため顕彰碑が建立され
ました。
舞阪町教育委員会

建立場所:JR弁天島駅から道を斜めに渡り舞阪港方面へ、
弁天橋を渡り左向こう「焼鳥肥後」の隣です。
初代弁天小僧チャリ旅は続きます。
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那須田 又七 顕彰碑
那須田家の先祖は豊臣氏に仕えてましたが、大阪の役の後、
舞阪で農業を営むようになりました。
又七は文明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。
勉学に励み、16歳で舞阪宿問屋場の書記になりました。
その後は、村役人、宿役人として長く勤めました。
産業振興に努め、海苔養殖の基盤をつくりました。
飢饉の時には、私費を投じて救済事業を行いました。
その人望と功績により苗字帯刀を許され「袱刀爺爺」と呼
ばれました。
寛永3年(1850)66歳でなくなりました。
安政5年(1858)その業績を永く伝えるため顕彰碑が建立され
ました。
舞阪町教育委員会

建立場所:JR弁天島駅から道を斜めに渡り舞阪港方面へ、
弁天橋を渡り左向こう「焼鳥肥後」の隣です。
初代弁天小僧チャリ旅は続きます。