弁天島の思い出 浜名湖観光ホテル

イチロー@南浜名湖.com編集長

2012年05月18日 11:15



あるプロジェクトで浜名湖からはるか遠く広島の地にお住いの、
中村昭先生(広島大学名誉教授・理学博士)にご寄稿をお願いし
たご縁から、先生が南浜名湖雄踏のご出身と知ることとなりました。

南浜名湖あそび隊は、先生にここでもご寄稿をねだり、私たちの
ために「弁天島の想い出」の記をいただくことができました。
今晩から何篇かに分けてご紹介することといたします。

タイトルにつきましては不勉強ながら私どもでつけさせていただき
ました。

※昭和13年頃の乙女園 浜名湖観光ホテル

水産試験所(いまもあるかな~)の付近から上陸して、弁天島駅
近くの店で持参した銭(ゼニ)で「かき氷」を食べて、また逆コース
で帰るのである。
ときどき 途中 牡蠣殻で足の裏を切ったりした。いまでは考えら
れないこんな“冒険”が懐かしい。

弁天島の北側には、いくつかの(埋め立てて作られた)島がある。
その西の端に観光ホテルがあった事を知っているだろうか? 
木造で竜宮城のような建造物であった。

第12回オリンピックは、昭和15年(1940年)の9月に東京市(東
京都ではない)で開催される事が決定していた。しかし 世界は、
そのころから戦争が勃発し始めた(1939年8月 第二次世界大
戦はじまる)。

それでこのオリンピック大会は中止となった。これは、後で「幻の
東京オリンピック」とよばれている。

この観光ホテルは、この東京オリンピックに来日する外国人観光
客のためのホテルであるときいていた。結局このホテルは役目を
果たさなかった。

無人のこの豪華なホテルを自転車に乗って何回も見に行った事
があるが、その後 どうなったかは知らない。


※弁天島の潮干狩り風景(昭和30年頃)

弁天島には、鉄橋のほかに国道の橋が三つある。一番東の舞阪
と弁天島を結ぶ橋は貧弱だった。しかし二番目と三番目はコンク
リートの頑丈なものであった。

弁天島を通る国道は、昔は舗装もされていなくて、東海道の松並
木を思わせる大きな松が道に生えており、純日本風の旅館も道の
南側にいくつかあった。

いまは鉄筋コンクリートのホテルと舗装された国道1号線で昔の風
情はすっかり消え失せているようだ。

父が先生を辞め、私も中学生ぐらいになってから、曽根西(今の雄
踏大橋の東?)から兄達と湖水のなかを歩いて(所々で泳いで)裏
弁天にわたった。

海水着(といっても当時は6尺褌)に5銭(円ではない)を巻きつけて
おいた。

つづく

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