舞阪灯台のある、舞阪町民の森、小高い松林の遊歩道を散策する
と、太平洋戦争中の記録を残す案内板が建ってます。、
「舞阪監視哨 跡」
舞阪防空監視哨は最初西町に置かれたが太平洋戦争が始まると
遠州灘が一望できるここに移され望楼が建てられました。
当時の哨長は、名倉源吉(西)さんで町内16歳と17歳の青年学生
30人程で編成されました。
哨員の任務は午後7時から翌日の午後7時までの一昼夜交代で敵
機(艦)の発見、監視にあたり、食事は自炊でありました。
昭和19年2月には浮上中の米国潜水艦を発見し日本軍の攻撃で
撃沈、この功で舞阪監視哨は内務大臣表彰を受けました。
昭和20年になると4月に出漁中の舞阪の漁船がB24の爆撃で4名
の死者が出たり、6月には監視哨のすぐ北にB29から500㌔爆弾が
投下され町民2人が死亡、副哨長の桜井道鑑(仲)さんが右腕切断
の負傷を負いました。
さらに終戦近くなると松林の上すれすれに艦載機が飛来し機銃掃
射をしたり、艦砲射撃が行われるなど緊迫した日々が続きました。
終戦とともに監視哨も解散し関係書類は焼却処分され、今はこの
案内があるばかりです。
舞阪町教育委員会
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※マップは舞阪灯台に住所がないため、至近の舞阪総合体育館
を表しています。灯台はその南となります。